【続編】【本質・本源】を見ることの難しさ ②‼️
今回は、前回より闇深いケースです。
完全に、【本質・本源】を忘れ去っていました。
単に人の外観を見て、間違った判断をした前回レベルを遥かに超えて、生き物の生死にかかわる罪を犯してしまいました!!
ああ、、なんということを、してしまったのか
小さな生き物に対して、やってはいけないことをしてしまいました
ことの発端は、、先日、天気が良かったので、庭を観察しながら掃除をしていた時、ちょうど軒下辺りに使わなくなったバケツを二つ重ねて逆さに置いていたんですが、これをひっくり返した時、、、
もの凄い数の2~3mm程の蟻さんが、無数に ”うようよ” 蠢いていたんです‼️ 気持ち悪いぐらいにです‼️ さらに、小さな白い卵まであるではないですか‼️ さすがに我を忘れてしまいました。。
それが、下の画像です
思わず、「ウ、ウェ~!!」「おぞましい~、気持ち悪い~!!」と、、、あの、ムカデやヤスデ、ダンゴムシ、蟻を駆除する、「白い粉」を取ってきて、かけてしまいました。いえ、かけただけでなく、移植ゴテで掬って、バケツに入れ溝に捨ててしまったんです。その上、ホースで水をかけて流してしまいました
「白い粉」をかけた後の画像が下記です!!
キ、キ、、キレイに、なりました・・・
私の都合で、害虫は、駆除していい
ゴキブリにはゴキブリホイホイ、ネズミにはネズミ捕り、ムカデや蟻には「白い粉」と、勝手に決めつけていました。蟻さんは、普通に虫さんなどの死骸を片付けてくれる分には益虫と思っていましたが、こんなに大勢がうごめく巣の蟻蟻は、、私の中で『危険生物』⇒『駆除すべし』になっていました。。。
私の勝手な都合で、神様から頂いた生命に、良し悪しの色付けをしていたのです。前回ブログの出口に立つ女性の良し悪しの判断と異なるものの、根本は同じ発想なのでした。
これは、私が、まったく【本質・本源】を見ることが出来ていないことの現れです。闇の心で生きている証拠でした。
小さな生き物だけではありません。
庭に生えている植物に対しても同じ発想が根付いていました。例えば、伸び過ぎて隣のお家に入っている木の枝は切っていいとか、草ぼうぼうの雑草達は草刈りしていいとか、通行の邪魔になっているアジサイは剪定していいとか、、勝手に理由を付けて正当化していました
もちろん、私の一つ一つの行動の動機に【神の愛】があったなら、これらの行い・対処の仕方が変わっていたと思うのです。。 また、そもそも、最初からこんな事態に遭遇していないことでしょう
それに、全宇宙万物が【因果律の法則】によって、キッチリと公平公正に律していることを思うと、私は、自分の【愛】無き行いの責任を何らかの形で背負うことになります。このマイナスの行いを打ち消す、プラスの行いがなければ、その代償は、いずれ必ず巡ってくるんだと、思いました。
「神はすべて、すべては神なり」「神のみ存在する」、、この本質・本源が見れない最大の原因は、、自分と周りすべてを「神」として自覚出来ていないことです。まだ、「肉体」「物質」としての意識が、強すぎるんです。大半を占めているんです!
別の言い方をすると、自分の奥底にある「神」の意識を覆っている、外壁の「肉体」を自分だと思い込んでいるんです。
その外壁(肉体)に対する意識が、なかなか削れていかないんです。あまりにも五官の感覚に実体があるので、そこから生まれる欲の数々でさらに外壁(肉体)を分厚く塗りたくっている、そんな感じです。
「肉体」という外壁、これは、あまりに ” 強固 ” で、根っこが ” 深い ” です。どうすれば、崩せるのでしょうか??
前回、私は、その方法として、『自分の闇(偽我)の心に気付いて懺悔する』というような言い方をしましたが、今の私の現状からして、このままだと、あと何百年、何千年、何万年かかるかしれません。
暗闇の「闇(偽我)」の中で、「光(真我)」は、どこにあるんだ?? と、グルグル、堂々巡りをしています。 真っ黒だらけ、闇だらけの私でした。
そんな「闇(偽我)」の自分に、一条の光を射すには、どうしたらいいか? いえ、外からではなく、内から光を発しないと、今と変わりません
「闇(偽我)」の中から、光の風穴を開けて、闇を消してゆく、それが、私のやるべき最大の課題なんです。。その方法はなに❓❓
瞑想、反省、内観、精神統一、など、世の中に、いろいろありますが、、いずれをとっても、私が、「闇(偽我)」の土俵にいる限り、何千年、何万年もかかることでしょう!!
ならば、どうする❓❓
きっと何か手がかりがあるはず❗
私は、これまでの人生を振り返った時、自分が光(愛)であることを知っていた時期があったと思うんです。光(愛)を全身で感じていた時期があったと思うんです。。そこに手がかりがあるはずです
その手掛かりの答えは、0歳児の頃。生まれる前から、生まれてきた頃、だと思うんです
誰もが、この道を通ってきました。しかし、残念ながら、その当時の記憶はありません。しかし、魂の奥底には、キッチリと記録されています。その時の【暖かな心】を思い出したらいいと思うんです
本当に0歳児はすごい❗❗
周りの人を外観で判断したりしないし、
蟻の集団を見ても何とも思わないし、
ただ、ただ、すべてを受け入れ、すべてに感謝し、光り輝いています
その頃の私は、母親から「無償の愛」を頂いていました それは、母親を通した神の愛でした。
そして、今も変わらず心の奥底に持っています。私の真我は、早くそのことに気付けと、いろいろな形や機会を作ってくれていたんです。『あなたは、すでに、神の愛の中にいるんですよ』と。
それは、病気だったり、人間関係だったり、お金のことだったり、身の回りのことだったりと、私に一番ふさわしい形で知らせてくれています。それが分からず、欲まみれの偽我、闇に振り回されているのです。
肉体の自分、偽我の自分で、光を探し求めるのではなく、「無償の愛」に生かされている光の自分、霊の自分を思い出す努力こそ、一番必要なことだったと、今回の闇深い行いを通して、思い知らされました!!
そして、大事なことが、もう一つ。継続することです。四六時中。
以前の記事でご紹介した、知花敏彦氏のおっしゃている通りです。amebloでご紹介されている記事に、次の一節が書かれています!!
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B - 325 霊的修行と実践 1989.10.11 の一節です。
19:17
だから皆さん方の 日常生活が、本来は霊的修行なんです。
しかし皆さん方は どうしても見える世界に【執着】してしまって、見える物の背後にある霊的なものを見失いがちなんです。
それを見失わないために、
五官の目と耳を閉ざして頂いて 内なる霊的自分を見つめる訓練。
時間あるごとに 内を意識する訓練。
1分1秒間でも構いません。トイレに座ってる時間でも構いません。どこでもいいから 一日に何回位、内なる自己を意識したかというのが、多くすればするほど内なる自己は活発化します。
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『0歳児 の心境』で、『内なる神 を意識する訓練』を何回も何回も続けることが大切だと思いました。 そうすれば、やがて心の底から「神はすべて、すべては神なり」の自覚が、芽吹いてくると思います。
身の回りの人々、物事、そのすべての背後に、神の命と愛と赦しが満ち満ちている。だから、これまでも、これからも、神を忘れてきた傲慢な私の過ちに気付ける時を頂いている。
ほんとにありがたいことです。。。
悔い改めて懺悔するほどに、感謝の心が現れてくる この神の創られた世界の完璧さと、ただ、ひたすら温かく見守って下さる神と霊の方々に、感謝しかありません!
守護神様、守護霊様、亡き妻および古の霊の皆様、いつもお導き頂きありがとうございます🌺