【体外離脱】地獄界の様相 (スウェデンボルグ②)
前回、「スウェデンボルグ」は、地獄界は「宗教の説くような罰を与える世界ではないこと」、「自分が霊的存在だと分からない霊は、自分の波長に合った凶霊の住む世界(地獄界)へ引き寄せられてゆくこと」等について、教えてくれました。
そして、最も重要なこと、すなわち「現世にあったとき、物質的欲望、色欲、世間的名誉欲、支配欲などといった、人間の外面的、表面的感覚を喜こばすことばかりに心を用い、本当の霊的なことがらを極端にないがしろにした者」が、地獄界へ行くことを教えてくれました。
この彼が教えてくれたことは、合点がいくことです。ただ、「物質的欲望など」からどれだけ超越しているかと問われると、私は、まだ100% 無欲ですと言えません。
最低限の生きていく上で必要な食欲にしても、まだ、何かしらの選別の心、例えば好きな食べ物を選ぶといった心があります。自分の見栄えにしても、普通の人に見えるようにという心があります。地獄界に行かざるを得ないかもしれません
いずれ、ありのまま、与えられたまま、そのままで「ただ、すべて良し」「すべて神・宇宙の大霊なり」の心境になれると、信じています
自我を無くし、真我(神我)を顕すほどに、物質肉体に関わる欲は、必ず消えてゆきます。その最短と思う方法、やるべきことに、一心集中しなければなりません 💖
ところで今回の本題ですが、今日は、実際に地獄界へ行き、地獄の生(なま)の様子を見て来たスウェデンボルグが語る地獄界の様相について見ておきたいと思います。
ただ、「スウェデンボルグ」が、地獄へ赴く精霊について地獄へ入ったことや、暗い穴ぐらのような通路が何十段も枝分かれしながら下へ下へ続くこと、途中黒い霧のようなものに包まれそれを超えると広大無辺な世界に出たこと、
途中に出会った霊たちの姿、形、顔つきの醜怪さ、住居や街、樹木等々の正視できない怪奇な姿、また世界全体に鼻をつまむ気持ちの悪い異臭が漂っていること、
また、そこかしこで何百何千の凶霊達が残虐な事件を起こしていること等、彼が書き残した地獄界の詳細は、彼の一字一句を読むのが一番適切で迫真に迫るものがあります。
しかし、ここでは文字数の関係で伝えきれない内容が多くありますので、下記に、彼が地獄の世界について簡潔にまとめている箇所を抜粋します。
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「私は霊界を見て来た」P164~P165より抜粋
抜粋箇所は『 』で表示しています
『 地獄の世界も、霊界と同じように3つの世界に分かれている。
そして、この3つ世界は上から見ると底なしの沼のような黒い霧の中にあり、下へいくほど凶悪な霊の住む恐ろしい世界になる。・・・中略・・・
地獄とひとくちに言っても、そこには一つとして同じものはない。全ての世界には千差万別といった違いがあり、共通していることは、その世界がいずれも 醜悪さに満ち、凶悪な霊たちの住む世界 だということ。この世界では、つねに憎悪、軽蔑、報仇といった気持ちと争いに満ちている ということだ。
私の見た地獄にも色々あった。ある地獄では、汚穢(おわい)と糞土のみがあり、また淫房(いんぼう)だけの地獄もあり、火事の焼け残りの跡のような印象を与える地獄もあった。恐ろしげに茂った森林のような地獄では凶霊たちが、その森林の中を猛獣のような姿でうろつき回っていたりした。
また、地獄の凶霊たちに共通した特徴は、彼らが如何に凶悪さに満ち、凶悪な行動を好むものでも、全て、どこか生気に欠け死屍のような " 死 " の印象を強く与えることである。これは彼らが、霊界の真の生命の根源である 霊界の太陽 につながりを持っていないためにほかならない。
もうひとつ言うと、私が地獄界で見た小さな明かりは実は、この世、つまり自然界の太陽の明かりだった。まだ、物質的欲望や我欲を脱し切っていない凶霊たちは、物質界の太陽の光につながって生きようとする態度を 死後 何万年へても捨て切れずにいることを示している。 』
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このように、地獄界に通ずる心、「物質的欲望」や「我欲」等を捨て切って一掃するには、真我(神我)を顕してゆくしかありません。
前回と今回、2回続けて地獄界のことについて書きました。その本意は、私の心の有り様によって、いくらでも低く醜い世界に落ちて行くことがあるということを言いたかったからです。
この肉体界にいる限り、さまざまな欲の姿・形・誘いなどに触れます。自分はもう悟った、出来たと思った瞬間、地獄界に通じ始めます。
肉体の五官の活動をなるべく低く低く最小限に抑え、意識の中から、どれだけ、神・真我を顕して行動してゆけるか、常時一分一秒が問われています。
いまここに在る、全ての万物万象が、神・宇宙の大霊の【生命】そのものだ、と思えるまで、一心集中しなければなりません。
まさに、下記一文の通り、知花敏彦 師の仰る通りです。
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知花敏彦 師 「B - 329 生命は七色 1989.06.10」
Ameba 2023-06-11 より抜粋
17:55
神は決して私達の低我で、知る良し悪しはありません。
神を知るには、私達の意識を高めなくちゃならない。
低いものが高いものを知ることはできません。
低い所から高い所を見ることもありません。
これは一つの法則です。
高い所に登り切って、初めて皆さんの視野は拡大される。
低い低我に住んでいる者は 視野の狭い者、意識の狭い者なんです。
その者は無知そのものなんです。
神を我々の思考にまで引き摺り下ろして説いてはなりません。
まず神を知るには、あなた方の意識の高揚・視野の拡大が非常に大切であるということです。
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この一文は、前回記事の中で、シルバー・バーチ霊が仰ったことと同じことを言われています。すなわち、高い界から低い界へ語り掛けたり見ることは出来ても、逆は出来ないということ。自らが高い界へ進むしかありません。
その為に、自分の周りに「最適な協力者」、「最適な出来事」、「最適な環境」が待ち受けているのです。低我でなければ、これらを< 素直に受け入れる >ことが出来ることでしょう💖
私達は、【 神・宇宙の大霊 】に近づくため、意識を高めてゆく、すなわち、<欲の心>で反応するのではなく、自我の無い< 無償の愛の心 >で反応することが必要だったのです
最後まで、お読み頂きありがとうございました。
守護神様、守護霊様、亡き妻および古の霊の皆様、私の本体・真我を通して、いつもお導き頂きありがとうございます🌺