死者の行方 シルバー・バーチ②
命日について
前回、シルバー・バーチより、亡くなった人を悲しむ心には、利己心が潜んでいる。と教えられました。
自分を包んでくれていた愛を失って、孤独になった生活を嘆き悲しんでいるにすぎないのだと。それは、利己心の現れであり、悲しむのは間違っている。悲しむのではなく、失ったものに耐えていかねばならないのだと。教えてくれました。
本当に亡くなった人を悲しむ心には、利己心が潜んでいるのでしょうか??
確かに、自分一人残され、寂しい、悲しい、辛い、悔やむ、後悔するなど、いろいろな感情が交錯します。亡くなった人も、同じ気持ちなのではないかと思ってもいます。だから、そんな「利己心」って、言い過ぎじゃないか、と言いたくなります。逆にもっと、悲しんでもおかしくないと思う気持ちがあります。
しかし、一方で、亡くなった人が、霊として永遠に生きていることを考えると、肉体の死は、今世での役目を無事に終えれたという意味で、喜ばしいことだと、本来なら祝福してあげねばならないのではないか、という気持ちも芽生えています。
一人残った私は、大切な妻の死により、孤独を克服し、耐える機会を与えて頂いたと感謝出来るだろうか。そして、自分が今世やるべきことを、残りの時間でキッチリとやり終えることに集中することが出来るだろうか。
シルバー・バーチの仰ることは、深遠でなかなか気付かないところを指摘しています。ただ、指摘されても自分が間違っていることに気付くには時間がかかります。私は、生きていくあらゆる場面で、自分中心の考えに立っていることは間違いなく、私は正しい、私がやっていることは間違いない、そんな生活を何十年と続けてきました。
しかし、誰しも、「ただ、感謝」で生きていた時期があります。
それは、お母さんの胎内にいる時から、赤ん坊の時までです。
その時の記憶は、思い出せませんが、母の愛を無条件で受けていた時期、無償の愛に包まれていた時期が、必ずあります。その時の心境に、死ぬまでになれたら、、いや、今から、その時の心境になる努力、精進こそ必要なのだと思います。それが、まずこれからやるべき、私の最大の仕事だと思います。
「シルバー・バーチの霊訓(八)」に「命日は記念すべきか」の項に次のように述べています。
引用:63~70ページ 抜粋箇所は、色付け文字の文章で、下線は私が入れています。
「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか?」という質問に対して、
悲しむことは、
「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変らず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。
過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません! 過ぎ去ったことをくどくど思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に胸をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です。」
命日を悲しむのではなく、一日一日を希望に胸ふくらませ、霊的進歩の好機として迎えたいです。
願わくば、妻の霊に一歩、また一歩、近づけることを願って🌺